-新居浜市内に残る別子銅山産業遺産-

 

遠登志橋(おとしばし)

明治38年(1905)長さ48.26m、幅2.4m、高さ23.2mで完成。ドイツのブルバッハ社製の鋼材で組まれた日本最古級のアーチ橋。東平エリアへの生活道路として利用され、坑水路も併設されていた。

 

大斜抗

昭和44年、別子銅山再生の最後の望みをかけた大斜抗が完成しました。

 

 

第四通洞

大正4年(1915)大立坑までの4,596mを貫通し、運搬の大動脈となった。1組20人1日4交替で作業に当たり、5年8ヶ月で完成させた。橋は、大正8年(1919)に第四通洞接続のトラス橋として開通。

 

端出場鉄橋・端出場瑞道

明治26年(1893)別子鉱山鉄道下部線開通時に完成した。美しいボーストリングワーレントラスト(弓弦式)の橋。鉄橋の部材はドイツのハーコート社で作られ輸入されたもので、現在国内に数基しかない。今でも、マイントピア別子の観光用鉱山鉄道として利用されている。

 

旧泉寿亭特別室棟

昭和12年(1937)別子銅山開坑250年記念の来客を迎えるため、住友企業によって建てられた接待舘。「泉寿亭」は、住友の屋号「泉屋」を寿ぐ舘の意。現:別子銅山記念図書館の地から、平成3年(1991)に特別室の一室が移築された。

 

旧端出場水力発電所

明治45年(1912)建設。当時東洋一、597mの落差を利用し最大級の出力4,800kwを誇った本格的電力供給施設で、ドイツ・シーメンス社製発電機やフォイト社製水車等、100年前の貴重な機器が残っている。※内部非公開

 

旧山根精錬所跡

明治21年(1888)製錬所が設置された。当時の先端技術で、銅製錬と共に硫酸製造や製鉄試験を行っていた。100年以上の時を超えた今でも高さ20mのレンガ煙突が残り、新居浜のシンボルとして「えんとつ山」の愛称で親しまれている。

 

大山積神社

開坑直後に、鉱山鎮護の神として大三島(現:今治市)の大山祗神社を祀った。当初は、旧別子の縁起の端に建てられたが、現在は山根地区に移っており、例大祭が行われている。その境内には、海抜約1,100mの山中5,532m間を走っていた日本初の山岳鉱山鉄道「別子1号機関車」が展示され、当時を静かに伝えている。

 

山根競技場観覧席

昭和2年(1927)住友別子鉱山㈱常務取締役鷲尾勘解治の考えの下、住友各社の社員による「作務(さむ)」と呼ばれるボランティア活動により建設。400mのトラックと収容人数約6万人という規模で、当時は企業運動会に、現在は太鼓祭かき比べ会場として観客で埋め尽くされる。

 

旧広瀬邸・広瀬歴史記念館

初代住友総理人広瀬幸平の邸宅。明治の大規模和風住宅で、美しい庭や茶室の他、ガラスや避雷針、暖炉等モダンな西洋輸入品もあしらっている。「望遠楼」と呼ぶ2階の部屋からは街や瀬戸内海を一望でき、広瀬氏が漢詩を詠み想いをはせたと言われる。広瀬幸平の足跡を通して、工業都市・新居浜の生い立ちと、日本産業近代化の歩みをたどる記念館。建物にそびえる特徴的な搭は「現代の望遠楼」と呼ばれ、潜望鏡の仕組みを利用し、南北に美しい山々と瀬戸内海を眺めることができる。

 

星越駅跡

新居浜選鉱場の操業に併せて設置された別子鉱山鉄道の駅舎。昭和4年(1929)には、鉱山鉄道が一般客も利用できる地方鉄道になり、星越駅で国鉄の切符も買うことができるなど地域の玄関口となった。近くにトンネルも現存している。

 

元住友共電社長宅

山田社宅は、新居浜屈指の高級住宅街で、1,000人が暮らしていた。その中に、外国人技術者も快適に暮らせるよう、サンルームやテラスがついた西洋社宅が今も残っている。

 

口屋跡

港と登道に面し、入港船の積み荷検査、輸送業務を行う重要拠点だった口屋。その跡地は小学校、町役場、市役所、図書館等に使用され、現在は「口屋跡記念公民館」となっている。300年の時を超えて「あかがねの松」は、当時のまま今も同じ場所に、凛と根を下ろしている。

 

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