人跡未踏の銅山峰南斜面で、元禄3年(1690)露頭が発見され、翌年住友により採掘が開始され、以後283年間にわたる長い間、営々と掘り続けられました。
海抜約1300mの銅山越えから斜めに深く長く帯状に貫入した鉱床は、非常に珍しく世界でも稀にみる大鉱床でした。元禄時代幕府の長崎貿易の代金支払いが銀から銅に代わり、銅が最大の輸出品になると、幕府は銅山開発に力を注ぎ始めました。
別子銅山も開坑からわずか8年後の元禄11年に年間産鋼量1500トンに達しました。別子の山中(旧別子山村)には最大で12000人もの鉱山関係者などが住んでいました。
坑道の総延長約700km、採鉱場所が海面下約1000mに達し、浸透水と地圧による坑道崩壊の危険性等により、昭和48年筏津坑の閉鎖を最後に栄光の歴史に幕を閉じました。
283年にわたる長い間、一企業(住友)によって採鉱された鉱山は世界にも例がなく、近代化産業遺産としてその稼業の跡を市内のいたるところで見ることができます。

今なお残る悠久のロマン-産業遺産マップ

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口屋跡

元禄4年(1691)住友家が別子銅山を開坑した当初の運搬路は別子から宇摩郡天満の浜に出るコース(約35km)であったが、元禄15年(1702)銅山越から角石原に出て立川を通り新居浜浦に至る運搬路が(約16kmに短縮)完成し、浜宿として「口屋」が設けられた。「口屋」とは、物資供給の基地であり、別子銅山から運ばれた粗銅は大阪の銅吹所へ船で送り出され、銅山で必要な食料や資材等が銅山に送られた。口屋には代官所の役人、住友家の手代が常駐し船の積荷の検査、牛馬による銅山輸送等の業務を担当していた。その後、口屋は住友分店と改称され、明治23年(1890)に惣開に分店が移転するまで別子銅山の重要な拠点であった。敷地内には「口屋あかがねの松」が300年以上もそのままの姿で現存する。

共電社長宅

星越駅

別子鉱山鉄道の駅舎として唯一現存している。新居浜選鉱場の操業に併せて設置された。

広瀬邸

(国の重要文化財)
広瀬宰平の旧邸。明治10年に母屋、同22年に新座敷が建てられる。重文指定は平成15年。

山根観覧席

(国の登録有形文化財)
昭和初期、鉱山トップの鷲尾の考えに基づき、職員の「作務(さむ)」と呼ばれる勤労奉仕により築造される。

大山積神社

元禄4年(1691)に、別子銅山の鎮護の神として大三島の大山祇神社から勧請されました。当初は旧別子の縁起の端に建てられましたが事業の変遷とともに、目出度町、東平そして現在の生子山麓に奉還されました。

山根精錬所跡

(国の登録有形文化財)

山根製錬所は明治21年(1888)に完成しました。しかし、煙害問題により明治28年(1895)に閉鎖、レンガ造りの煙突(約18m)は、雨・風にさらされながらも120年余りの時を超え、別子銅山を象徴するモニュメントとして静かに新居浜の繁栄を見守っています。

旧端出場水力発電所

(平成23年国の登録有形文化財指定)
別子銅山へ電気を供給するために明治45年に建築されました。愛媛県を代表する西洋建築物です。

端出場鉄橋・端出場隧道

この鉄橋は明治26年(1893)に架設されたものでドイツのハ一コート社のピントラス橋で、溶接などせずピンのみで留められた非常に珍しい橋として現存しています。
(平成21年国の登録有形文化財指定)

第四通洞

昭和5年(1930)、別子銅山の採鉱本部が東平から、この端出場に移されたことにより重要な位置を占めるようになりました。端出場の坑口より探鉱通洞と併せ約10kmの水平坑道によって筏津坑の下方に通じており、採鉱された鉱石は各斜坑 立坑により、この坑道に直接搬出され、端出場を経由して星越へと運ばれました。現在も第四通洞は、マイントピア別子で当時の姿をとどめています。

泉寿亭特別室棟

(平成21年国の登録有形文化財指定)
昭和12年、京風数寄屋造りの住友接待館(泉寿亭)として、市内北新町に建設されたが、平成3年この地に図書館の建設計画(完成後、住友グループから新居浜市に寄贈)が持ち上がり、取り壊される運命にあったが、特別室棟のみがマイントピア別子へ移築され大切に保存されています。

 

大斜抗

別子銅山の命運をかけて、昭和35年に開さくに着手、44年に完成する。長さは4455メートル。地下1000メートルに及ぶ。
※無断で入山はできません。

遠登志橋

(国の登録有形文化財)
明治38年建設。現存するアーチ橋としては、国内最古級。平成5年にアーチ部分を残し、新たに吊り橋を架設。

 

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